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誠実であること

  学問の世界は日進月歩ですが、古楽の世界も同様です。日本に居て日本語で書かれた情報にばかり接していると分からないものですが、新しい資料の発見や研究成果により音楽の世界は日々更新されています。例えば、18世紀のワイマールでは金属弦の撥弦楽器バンドーラがよく使われていたらしいこと、18世紀イギリスにおいてかつては”最後のヴィオラ・ダ・ガンバ奏者”と呼ばれたアーベル亡き後も、ヴィオラ・ダ・ガンバは弾かれ続けた(しかも、アーベルがプロフェッショナルな最後のガンバ奏者でもない)こと、今までオリジナルと思われていた楽器が19世紀の贋作だったことなどなど...  研究の最先端にいる専門家、"真の古楽奏者"は、もし自分の考えが誤っていたら躊躇なく訂正しつつ、「当時の音楽はどのようなものであったか」ということを追い求め続けます(それはよく誤解されるのですが「当時の演奏を再現する」というわけでは決してありません。ましてや現代の感覚で「あれは良い、これは悪い」などと決めたり、自分にとって都合が悪いことを無視し、逆に都合が良いことだけをかき集めて"捏造"するのでもありません!)。  古楽は、当時の文化や哲学、美学などを理解し、当時のやり方で音楽に取り組む、ということだと私は思います。それは当時の発想の範囲で即興をするという創造的行為や、当時存在していた多くの可能性の中から選択する自由も含まれています。それは多くの人が思うような教条的なものではなく自由な世界です。これらは行為の問題というよりは態度の問題であり、当時の音楽に対してどれだけ誠実な態度でいるかということであると思います。話題に走ったり、自分はこう学んだからと言って間違ったことを墨守することではありません。音楽を生業にしているとはいえ商売のダシにするのでもなく、「自由」を誤用して「古楽」の名を冠し古楽器で流行りの音楽を演奏したり、音声合成技術を使って昔の音楽を演奏する(それは当時の音楽と何もかかわりがない時点で古楽ではないのですから、古楽を名乗ってはいけないでしょう。それは欺瞞です)のは論外です。当時存在しなかった仕様の楽器を古楽器と称するのも、やってはならないこと(なら、昔の演奏はどうなのかといえば、当時可能な限り調査・研究し実践可能な範囲での結果なら、それは尊重するべきでしょう。そうでは...

安い

  メーカーによりますが、古楽器のレプリカをオーダーした場合の金額は、例えばルネサンスリュートやバロックギターなら50~60万くらい、6弦のバス・ヴィオラ・ダ・ガンバなら100万、フラウト・トラヴェルソなら20万~40万くらいでしょうか。大概はケースはオプションであり、遠方ないし海外のメーカーなら送料が掛かります。ハープシコードなどの鍵盤楽器のような大型の楽器であれば、楽器の価格も送料もそれなりに嵩むものとなるでしょうか。  こういう話をすると「高い」とか「もっと安いのがいい」という声をまあまあ聞きます。ご本人の懐事情もあるのでしょうが、これはよく考えないといけません。「安い」ということには何かしら理由があり、どこかで誰かがしわ寄せを受けるものです。古楽器は手工品ですから、一年間に作れる台数は限られます。それにメーカーにも私たちと同様に生活があるのですが、人並みの暮らしをしようとするなら前記の価格でも安いくらい。本当はもっと高くないとやっていけないでしょう。そういう状況で価格を安くするというのはメーカーに対して「霞を食っていろ」と言っているのに等しいのではないでしょうか。  以前から中国製やパキスタン製のリュートなどが出回るようになりました。それらは一般のメーカーよりも安く、一見すると悪くはないように見えます。けれども、それは当時の音楽や楽器をよく知らない人達がマニュアルに基づいて作っているもので、どんなに工作精度が高くても、どこかに「足りない」ところがあります。それは些細なことではなく、当時の音楽に取り組む上で必ず限界を迎えます。そういう安い楽器ばかり買い求めるという風潮は、「 悪貨は良貨を駆逐する 」という言葉が示す通り、真っ当なメーカーの経営を圧迫し、いずれは古楽器を作る人が減っていき、ついには世界中から消えてしまうかも知れず、文化のためにもよくはないでしょう。  正当な仕事には相応の対価を支払う、それができない人は古楽器を手にしてはいけないと私は思います。安月給で社員をこき使うようなブラック企業のような態度は絶対にいけません。お金に頓着せず、楽器の購入も含めて相当のお金(と時間)がかけられる人だけが、古楽器をやる資格があると思いますし、そうではない人は古楽器をやらないほうが当人のためにも良いと思います。世の中には古楽以外にも様々な音楽や、音楽以外の趣...

18世紀イギリスのテナー・ヴァイオルに関するメモ

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ヴィオラ・ダ・ガンバを持つ若者の肖像 (Jan Verkolje, Public domain, via Wikimedia Commons) ウィリアム・ピアソン(ca.1671-1735)の「The Compleat Musick-Master」に言及あり。初版は1704年で、1722年の第3版も同様。 フレデリック・ヒンツ(1711-1772)がロンドンにおいてバス・ヴァイオルのほか、アルトやテナー・ヴァイオルを制作・販売していた。 キリスト教のモラヴィア兄弟団は礼拝にシターンや小型のヴァイオルを用いていた。 18世紀イギリスにおいてヴァイオル・コンソートが演奏されていた形跡は現時点でなし。 アン・フォードやカール・フリードリヒ・アーベル、アーベルの弟子がヴァイオルを演奏していたが、当時のイギリスにおいてヴァイオルは珍しい楽器、エキゾチックな楽器と考えられていた。 イギリスの音楽学者Peter Holman氏によると、アルトやテナーサイズの小型のヴァイオルは、現代のハーフサイズ、3/4サイズのチェロのようなものではないか?とのこと。 ※Boydell Press出版、Peter Holman著『Life After Death: The Viola da Gamba in Britain from Purcell to Dolmetsch』、P147-148より。 漠然と思うこと  テノール・ヴァイオルが指定された曲集は確認できていないが、礼拝音楽の伴奏以外では他の楽器の曲や、楽器指定がない曲を弾いていた?  音域は(6弦)バスと異なるが、その広さは同じ。最低音はG2まである。もっとも、それほど低い音がなくても通奏低音は成立するから、最低音や音域はあまり関係ないか。  バスとして使われたと思われるヒンツのテノール・ヴァイオルには鉄製のフレットが当初から備えていたものがある。巻き弦も使ってバス・ヴァイオルと同じ音域にセッティングしたのか。

18世紀のヴィオラ・ダ・ガンバ(その2)

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  ボストン美術館所蔵の様々なサイズのヴィオラ・ダ・ガンバ(By Pacamah - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=141993216)  以前からヴィオラ・ダ・ガンバの入手を考えていましたが、それは6弦のバスでした。私は18世紀のイギリス音楽が好きであり、語学の問題と、私の性質―限られた領域に専念しなければ気が済まず、あまり色々と手を広げることが嫌い、めんどくさがり屋、不器用、置き場所等々―の要請から、やはりそれは18世紀のイギリスに関係し、扱いが容易である必要があります。6弦のバスは、7弦のバスよりもとっつき易いように思われ、ソロにもアンサンブルにも使えます。レパートリーは7弦の曲をちょっとした工夫で弾くことができるものもあるのですが、7弦の楽器は現れた後もずっと6弦の楽器が作られ続けたことから、それはひょっとするとヒストリカルなアプローチでもあるように思われます。フランスのヴィオル(ヴィオラ・ダ・ガンバの仏語名。英語だとヴァイオル)曲は18世紀にイギリスへ輸入されていたようですし、時代は少し遡りますが、サント=コロンブの息子ジャンは渡英してダラムで活動していましたから、イギリスにも十分関係しています。また、ドイツから渡英してバッハの末息子クリスティアンと組んで活躍したアーベル、さらに彼の弟子の作品も6弦で演奏できるものがあります。それらのことを考えると、バロックリュートにおける11コースのように、6弦のバス・ヴィオラ・ダ・ガンバは7弦よりも扱いやすく、汎用性もあり、ヴィオラ・ダ・ガンバという楽器の中ではベスト・チョイスのように思われます。  しかし、実際にはそうでもない(少なくとも私にとっては)のでした。  まず、楽器が大きいこと。小さめの楽器でもバスくらいの大きさの楽器を脚に挟み、弦を押さえるのはちょっとしんどいものがあります。ハードケースに収納すると結構嵩張り、パッと見ると小学生低学年くらいの存在感があります。私はすでに多く楽器を所有しているので、さすがにこれほどの大きさの楽器を保管するのは避けたいというか、邪魔です。  次に、低音が響きすぎること。コンサートやセッションで接したときのバスの響きを思い返してみると結構デカく響きます。ソロ...

低音

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  コレッリのヴァイオリン・ソナタOP.5の表紙。通奏低音は「ハープシコード”または”ヴィオロンチェロ」と記載されている。(1740年頃のロンドンでジョン・ウォルシュが出版した版より。)  現在、17世紀や18世紀の室内楽曲を演奏する際、通奏低音はハープシコードやオルガンといった鍵盤楽器に、チェロやバス・ヴィオラ・ダ・ガンバ、ファゴットなどの低音旋律楽器を加えることは少なくないのではないでしょうか。そこにテオルボやアーチリュート、ギターなどの撥弦楽器を加えたり、鍵盤楽器を二台に増やしたり、ヴィオローネを入れたりする場合もあるようです。 日本語版Wikipedhiaの通奏低音の記事 には、「通奏低音の演奏には、オルガン、チェンバロなどの鍵盤楽器や、リュート(テオルボ)、ハープ、ギターなどの撥弦楽器といった和音の出せる楽器が用いられ、しばしばヴィオラ・ダ・ガンバ、チェロ、ヴィオローネ、ファゴットなどの低音旋律楽器が併用される。」とあります。しかし、実際には低音旋律楽器が用いられるのは、規模が大きいアンサンブルなどで低音を補強するためくらいのもので、何らかの効果を狙ったものや、曲の構成上必要な場合(先ほどご紹介したWikipediaの通奏低音の記事にも「イギリスのP.ホールマンによれば「(17世紀初期の)ソナタでこれらの楽器が使われたのは、音楽がオブリガートのバス・パート(コンティヌオのバス・ラインより手がこんでいる)を含むときだったと思われる」という」とありますね)くらいで、大体は専用のパート譜が用意されていました。この記事にある画像は有名なコレッリのヴァイオリン・ソナタの当時の出版譜の表紙ですが、今日日(きょうび)この曲の通奏低音はハープシコードやオルガンのほかにヴィオロンチェロを加えて演奏することがままあります。実際は鍵盤楽器かヴィオロンチェロのどちらかだけで演奏する(イタリアの初版も「ヴィオローネ”または”チェンバロ」という指定)もので、 イギリスのアンサンブル”トリオ・ヴェラチーニ”の演奏 では、曲によって通奏低音はヴィオロンチェロだけ、ハープシコードだけで演奏し、ラ・フォリアでは、それぞれの楽器だけで通奏低音を弾いたものを収録しています。個人的な感想ですが、一つの楽器だけで通奏低音を弾くことで曲の構造、和声進行がクリアになり、曲の良さが最も感じられるの...

18世紀のヴィオラ・ダ・ガンバ

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様々なサイズのヴィオラ・ダ・ガンバ(Michael PraetoriusのSyntagma musicumより)    17世紀の後半にサント・コロンブがバス・ド・ヴィオル(ヴィオルはヴィオラ・ダ・ガンバのフランス語名)に第7弦を追加してからというもの、それ以降はヴィオラ・ダ・ガンバ=7弦のバスと考えている人が少なくないようです。私が見聞した範囲だと、18世紀のヴィオラ・ダ・ガンバ曲には7弦のバスが必須と思っている方がいます。  結論から言うと、18世紀のヴィオラ・ダ・ガンバ音楽には7弦のバスは必須ではありません。マラン・マレやアントワーヌ・フォルクレなど7弦バスを駆使した名手が活躍したフランスにおいても、6弦の楽器は作られ続けましたし、工夫をすれば6弦で弾ける曲もあります。18世紀も進んでくると、ヴィオル自体が廃れ始めますが、興味深いことにこの時期にパルドッシュ・ド・ヴィオルというヴァイオリンと同じ高音が出せる小型の楽器が流行します。ルイ・ド・ケやデルヴロワ、バリエール、ボワモルティエなどの音楽家が多くの曲を書きました。また、パルドッシュでヴァイオリン曲を弾くということも行われていたようです。  ドイツでも7弦の楽器が作られ始めますが、同時に6弦バスも多く作られています。ドイツではシェンクやキューネルといった名手が活躍し、バッハやテレマンも曲を書いていますが、それらは必ずしも7弦を必要としません。例えば、有名なヨハン・セバスティアン・バッハの三つのソナタも、基本的には6弦で演奏可能です。  イギリスでもバスは6弦と7弦が作られたほか、興味深いことに、アルトやテナーといった小型の楽器も製作・販売されていました。18世紀にイギリスにやってきたキリスト教のモラヴィア教会派の一つモラヴィア兄弟団は、典礼の際に小型のシターンやヴァイオル(ヴィオラ・ダ・ガンバの英語名)を使った影響とされます。イギリスのヴァイオルというと、大小さまざまなサイズのヴァイオルによるヴァイオル・コンソートが知られますが、18世紀のイギリスでは既に廃れており、ヴァイオル・コンソートに関する出版物等も私が知る限りないようです。モラヴィア兄弟団の典礼音楽や、他の楽器の曲、あるいは即興的に弾かれたのかも知れません。バスに話を戻すと、ドイツ語圏から渡英したフィンガーやアーベル、アーベルの弟子たちといっ...

演奏という行為を楽しむということ

  古楽器に限らず、何か楽器を手に入れるとき、「あの曲を演奏したい」という目的があるかと思います。ハープシコードならJ.S.バッハ、13コースリュートはヴァイス、7弦のヴィオラ・ダ・ガンバはM.マレというように。それは何かしらの理由でよく知られた音楽家の曲であることが少なくないと思います。コンサートや録音で聴いたり、元々クラシックギターやピアノを弾いていて、編曲で馴染みがある...あの時見た(聞いた)楽器を弾いてみたい、この曲の本来の楽器で、という憧れの気持ちでしょうか(最近ではアニメやゲーム、映画などの影響でファンタジー(というかメルヘンチックな)雰囲気の音楽を求めて古楽器に興味がある場合もあるでしょうか、私には知性がないように思うし、なにより当時の音楽や楽器への敬意も感じられないので、ここでは問題外とします)。  さて、「憧れ」から古楽器を求め、実際それを足掛かりに長く古楽器と付き合う場合もありますが、私は十分に考えた方がいいように思っています。例に挙げたバッハやヴァイス、マレの作品は、音楽の知識と演奏の経験が相当ある上級者を対象に書かれています。ちょっとやそっとで演奏できるものではありません。先生に教わって、熱心に毎日何時間も練習すれば弾けるかも知れません(本当にいい先生は難しい曲を弾かせようとしないのですけれどもね)が、そういう演奏は楽譜に書かれた内容を追いかけるだけで、曲に含まれている良さを楽しむものではありません。「演奏した」というスポーツ的な達成感はあるのかも知れませんが、それは音楽経験豊富な愛好家を楽しませようと思って書いた作曲家に対して非常に失礼な行為、というか冒涜ではないでしょうか?だって「こういうところを楽しんでほしい」と工夫して書いたのに、それに気付きすらせずに弾き飛ばしてしまうのですから。  17世紀や18世紀(もちろんそれ以前以後も)に音楽を楽しんでいた層は音楽の素養があり教養がありました。貴族や裕福な市民ではなくても、教会で歌ったり、日常的に何か踊ったり歌ったり弾いたり吹いたりしていて、現代の日本人よりは音楽的な耳や頭を持っていたのだろうと思います。言い換えれば、音楽がもっと身近であって、生活の一部だった。そこらへんに置いてある楽器を手に取って、気に入った旋律を弾いたり歌ったり、あたかも読書のように楽しんでいたのではないかと思い...